ベルトラン・チェビシェフの定理

nと2nの間に素数があるという例の定理だが,Wikipediaでは『数研通信』70号(2011年5月)に一松信先生が書いた記事を参照して,エルデシュの証明を一松先生がかみ砕いたものだとしている。しかし私はこの定理の証明を高校生のときに読んで,大まかにしか書いてない筋道の間を補完して理解した記憶がある。それは一松先生の『教室に電卓を!』という本に記載されていたものだ。しかし1980年に出版されたこの本はもはや入手困難だし,近辺の図書館にもどうやらなさそうなので確かめることができない。書かれているのが同じ証明かというと…30年も前の記憶では全然当てにならない(大まかな筋道はだいたい同じなのだけど。nが128より小さいときは手で確かめろとかいうところも)。もちろんそこから30年の間に,証明が改良されている可能性もあるわけで。

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有限と無限の話

外のブログに書いた話なのだけど,反応してくださった方がけっこういたのでこちらにも乗っけておこう。

こないだの日曜でプリキュアが最終回だったとのこと。最初のシリーズを含めて一度も見たことがないのではあるが,話題にはなっているので耳には届く。漫画家田中ユタカさんのtweet「無限の力」にも「無限の愛」にも頼るなとはっきり言っちゃっいましたねとあったのを見て,数年前に無限と有限に関する話を生徒の前でしたことを思い出した。旧サイトに残っているのだけど,もう管理していないところなのでこちらに転載しておく(一部修正)。自分の文章を転載するというのも妙な話ではあるが。

Donald E. Knuth先生が1990年に「3:16 Bible texts illuminated」という本を出版された。これは聖書の中から第3章16節を集めて,それについて研究して自分なりに翻訳・解説し,一流のカリグラ ファによるカリグラフィとともに本にまとめたものだ。この本には59個の第3章16節が集められている。聖書には3万の節があるというから全体から見れば 0.2%だ。たかが0.2%である(もちろん氏は敬虔なクリスチャンであるから,その部分だけを研究したのではないわけであるが)。しかし聖書が有限であ る以上,この0.2%には意味があるはずなのだ。

有限で大きい数というと昔はgoogol(10の100乗)やgoogolplex(10のgoogol乗)が 取り沙汰されたが,実はKnuth氏が世界一大きい数を開発したということでギネスブックに乗っているらしい。それは次のようにしてできるものだ。 10×10 というのは10を10個足したもの,10の10乗は(さっき定義した積を用いて)10を10個かけたものである(以下では10の10乗を10↑10と書く ことにする)。次は10↑↑10というのを10↑10↑…↑10と定義する(10は10個で,右から計算する)。続いて10↑↑↑10を 10↑↑10↑↑…↑↑10と定義する(同様)。彼はこの数をファンシーK,10↑↑↑ファンシーKをスーパーKと名付けた。これはとんでもなく巨大な数だ。正直なところ私は↑↑くらいからもう想像ができない。もちろんこれらの数は有限ではあるが,我々が考えられるものすべてがこの数の範囲に収まるだろ う。氏はMITで行なった講演の中で「神は有限であってもかまわない」と言っている。スーパーKのレベルでの有限ならば,それは現実には制約にはなりえな いからだ。

私は大学4年時のゼミで無限集合に関する振舞を勉強してきた。無限集合の大きさというのは1を足しても2倍して も2乗しても変わらない。ところが有限ならば1を足すだけで大きくなる(前述のスーパーKでさえ)。実はこれが有限と無限を区別する一つの考え方(デデキ ント無限)なのである。我々の世界が無限であり,能力が無限であるなら,私一人いなくてもかまわない(別の人が私の分をやればいい。無限なら2倍しても変 わらないのだからその人の負担は増えないのだ)。我々の世界が有限であるとするなら,どんな些細なことも意味を持つから,一人一人の存在が意味を持つ。 「親離れ」の一つの解釈として,親の保護下では無限の力があると錯覚していた子供が,実は自分には有限の力しかないことを認識する,という考え方がある。 「若者には無限の可能性がある」なんて嘘っぱちだ。我々は有限の可能性の中で,有限の世界に向かって,有限の能力で,有限の仕事をしている。

我々は有限だから一人一人の存在が意味を持つ。だから私は人がやることを大事にできない,踏みにじるといったことが一番許せない。それはその人の存在を認めないということだからだ。私は他人の存在を認められない者を人間とは認めない。以前 あるクラスで授業中に「私は君たちを人間として扱いたいのだが,現状では無理だ」と言ったのはそういう意味だ。人がやっていることを踏みにじる者を人間と して扱うことはできない。

田中ユタカさんのマンガも,同じように有限や現実に足をつけようとしているところがあって,そういうところを私 は好きなのだろうと思う。殴り殴られる痛みを知ってもいよう。身体の中や外で血が流れていることを知ってもいよう。自分の愚かさにさえ気づかない愚かさを 互いに責めたり許したりもしよう。他人より自分を守る弱さと強さを持ってもいよう。全能の神なら意に介さず放置してしまえる世界(新井素子さんの作品にそ ういう情景があったな。どの話か忘れたけど)に,ひ弱な人間がか細い牙をむいたりもしよう。そうやって,生きることを楽しんでいよう…いくつもの不愉快な ことも抱えながら。

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数は生きている

小学生のときに読んだ本なのだけど,ふと読みたくなってアマゾンで中古を買った。『数は生きている』(銀林浩・榊忠男著,岩波科学の本)。あらためて読ん でみるとすごい本だ。本気が伝わってくる。書かれていることのうち,当時は理解できてなかった内容も多いのだけど,いくつかの内容はそれ以来頭に残ってい る。コラッツの予想もこの本で知ったし,「論点先取の誤り」という言葉や虚数という考え方があることも知った。そういう先取り的な話ばかりでなく,考え方 にも大きい影響を与えてくれた。たとえば前半の目玉の一つである「分数の割り算はなぜひっくり返してかけるのか」の説明を読んで,こんな風に順を追って説 明されたら納得せざるを得ないものなのだということだとか。この本は今の私を作った本の中の一冊なのだと,はっきりわかる。

こんなことも書いてあったのだけど,これは覚えてなかった:

  • 自然数に0を含めない考え方がある(というか数学者ではそっちが普通)
  • 矛盾した体系からは何でも証明できる

数は生きている (岩波科学の本)

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Nagoya.R #2

今日はNagoya.R #2ということで名大へ。第1部,第2部は自分で既にやっていることなので軽く流してLTに備える。

「こまけぇこたぁいいんだよ!!」という題目でLT(資料)。だいぶ緊張してしまって言いそびれた内容もいくつかあるけど,反応はあったように思われたのでよしとする。

続いて安部晃生氏「Rで2ちゃんねるを読んでみた」(ブログに発表資料あり)。しょっぱなから笑わせてくれる。といってもただのお笑いということでなく,すごく「わかる」のだ…その苦労とか,意地になって実装してしまう気持ちとか。

最後は小島ますみ氏「コーパス研究におけるχ2検定再入門」。つい相対度数とか使っちゃう人とかいるけど気を つけてよ,とか,検定の多重性の話とか参考になる。それはそれでいいのだが,むしろ調査した内容の方に興味をもった。第二言語学習者はどんな風に強調語句を使いすぎてしまうかみたいな話。 ひょっとして最近の過剰敬語もこれと通じるところがあるのかな,と思った。敬語がきちんと染み付いてる人は適度な敬語で済ませられるけど(ネイティブス ピーカが過剰に強調語句を使わないように),そうでない「学習者」は自信がないもんだからつい敬語を重ねてしまうのではないか…みたいな。

懇親会でもいくつかおもしろい話が出たが,ここには書かないことにする(書いてまずい内容ではないけど)。

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